00 小さな雫が、頬に落ちた。 ただ、その頬の色は、モンゴイカのように、白い。 その姿は、人ではないことが遠目からでも、よくわかる。 __________雨? その雫は、DEADMANの大きく裂けた口の中に零れ落ちた。 少し、苦かった。苦いというのは正確ではないのかもしれない。 うっすらと塩味を感じる。 彼は反射的に、空を見上げる。 空は藍色の夜空。ただ、星は見えなかった。 空から、何かが落ちてくる。 それが何かわかる前に、その何かは、彼の頭に突き刺さる。 痛みに頭を抑えつつも、その痛みが気持ちよかった。 そんな彼は、真性のMだ。 頭に刺さったものを抜いてみる。 それは、片方だけのハイヒールだ。 __________飛び降り? ベットタウンであるこの街は、数多くのマンションが軒を連ねている。 彼は、注意深く、空を見上げ、人影を探した。 その中の一つビルの屋上に、うっすらと、人影のようなものが見えた。 彼は、急いでそのビルの屋上へ向かった。 __________嫌な胸騒ぎがする。 屋上にいたのは、小学生低学年くらいの少女だった。 雰囲気は、重く、そして暗い。 彼は、明るく、少女に話しかけた。 「どうしたんだい?」 少女は、驚いた様子で、彼の方を振り返った。 その顔は、悲しみにくれ、頬には涙の跡が残っている。 「おじさん、誰なの?」 「おじさんはアレだよ。あの、君の味方だよ。君は何でここにいるの?」 少女は答えない。ただ、俯き、彼の足の方に目を落とす。 きっとハイヒールを履いているからだろう。 「ほらほら、元気出してよ。」 「私、病気なの。」 言葉に詰まった。返す言葉が見つからない。 「明日から、また、入院しなきゃいけない」 少女は短くそう言うと、また、顔を下げた。 彼は悟った。少女がここにいた理由を。 「よし、じゃあ、おじさんが代わりに飛んであげよう」 自らをおじさんと呼ぶのには抵抗があったが、最初にそう呼ばれた以上仕方ない。 彼は、塀の上に立った。あまりの高さに頭がくらくらする。 彼が当時、高所恐怖症だったのは、まだ誰も知らない。 彼は、大きく息を吸い込むと、倒れるように屋上から、飛び降りた。 「やっぱり飛ぶんじゃなか・・・」 そんな彼の後悔する声が、かすかに聞こえた気がする。 気がつくと、目の前に少女が座っていた。 「おじさん、大丈夫?救急車呼ぼうか?」 「大丈夫だよ。僕は死なないから。傷だってすぐに治るし。 でも、ほら、痛そうだろ。苦しそうだろ。うまくいけば楽かも知れないけどね。 でも、失敗したら辛いよ。君の悩みや苦しみってのはわからないけど、 ここから飛んだらどうなるのかってのは、よくわかるし、君もわかっただろ? 皆が心配する前に、家に帰りなよ」 「でも・・・」 その言葉を遮るように彼は、いつもより笑顔で言った。 「どこの病院に入院するの?お見舞いに行くから」 少女が少し笑ったような気がした。 少女は病院先を告げると、またマンションの中に入っていく。 彼に残されたのは、片方だけの黒いハイヒール。 少女の物とは思えないほど大きい。 少女は、きっと、大人になりたかったのだろう。 腕を切り血を流していた。ただ、快楽のために。 特に理由も無く、使命を感じることも無く、ただ、生きていた。 初めて、飛んだことで、ようやく、理由が見つかった気がする。 __________誰かのために・・・か。 彼が初めて少女を見舞いに来た時、母親は彼を、死神か何かと勘違いした。 動転した母親は、少女の制止も聞かず、お経を唱えながら、何度も彼を殴った。 彼がぐったりしたところで、ようやく我に返り、少女から事情を聞き、彼に謝罪した。 小さい体でどこにそんな力があったのかと思えるほど、少女は気丈で、強かった。 涙をこぼすことはあっても、その涙は、誰に見せることもなく いつだって笑顔で、明るく振舞っていた。 彼は、友人として、何度も見舞いに行き、時に語り、時に笑った。 年月が経ち、その部屋に、誰もいなくなるまで。 彼は座っている。 未だ、生きることの意味も、死ぬこと意味も、わからない。 命に尊さを感じているが、不死の彼には、その本質がわからない。 なのになぜ、彼は、誰かに生きて欲しいと思うのだろう? それは、きっと寂しいから、もうあの子の母親のような悲しい顔は見たくないから。 彼は座っている。 夕暮れが過ぎ去り、夜が訪れる。 電気をつけないこの部屋は、暗い。 ぼんやりと輝くノートパソコンの青白い光が、彼の顔をより一層不気味に見せる。 トラックパッドを操作し、彼は電源を切った。 今日一日、電話が鳴ることはなく、メールも、迷惑メール以外、一通も届かなかった。 不満だが、これが一番いいのだとも、思える。 彼の住む場所の裏手には、霊園があり、 そして、その一角には、あの少女の小さな墓がある。 その上空にはあの日よりも、少しだけ明るい藍色の空。 月の無いこの夜空で、誰かに向けて微笑むように、 小さな星が、鈍く優しげに輝いている。 BACK TOP BBS |